「創造的破壊」が切り拓く、家具づくりの未来
※本記事に掲載している内容は2025年5月当時のものです。最新の情報と異なる場合があります。
2025年5月某日、徳島県の家具メーカー・冨士ファニチア株式会社の布川社長と、ヘヤゴト代表・宮島による社長対談が行われました。
創業からの歩み、輸出戦略、製造改革、高付加価値路線への転換、そして人づくりと理念経営に至るまで。変革を重ねてきた同社の現在地とこれからを、布川社長に語っていただきました。
冨士ファニチア株式会社 PROFILE
1959年、徳島県徳島市で創業。職人の技術とユーザーのニーズを結びつけ、変化を取り入れながら家具づくりを行なう。2010年には完全受注生産体制を確立し、多様なサイズ・樹種・塗装色・張地の組み合わせにより、ユーザーの理想に寄り添う家具を提供している。
代表的な製品は、180通り以上のバリエーションを持つ「Koti」シリーズや、40年以上愛され続ける軽量セパレートソファ「Agio」など。
徳島本社をはじめ、東京、名古屋、大阪、福岡、仙台、鹿児島にショールームを展開。2025年には東京・五反田にアウトレットショップをオープンした。
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(目次)
- 創業の背景と輸出からのスタート
- 革製品の開発とヒット商品
- 低迷期と再起の決断
- 製造改革とトヨタ生産方式の導入
- 満足感と幸福感に寄り添う家具をつくりたい
- 海外展開と新たな成長戦略
- 理念経営と人材育成の取り組み
- 挑戦する若手への期待と今後の展望
創業の背景と輸出からのスタート
宮島:まずは、御社の創業からこれまでの歩みについてお聞かせください。
布川:冨士ファニチアは1959年に創業しまして、今年で66年目になります。創業当初は、実はアメリカとオーストラリア向けの輸出100パーセントからスタートしたんです。当時は応接セット、要はソファを海外向けに製造していました。
メイド・イン・ジャパンを海外の方に印象づけるために、社名に「富士山」を使いました。富士山は海外の方にも非常にポピュラーで、日本を連想しやすいワードです。徳島で創業していながら「冨士」という名前を社名にしているのは、そういう理由からです。
宮島:なるほど、社名にもブランディングの戦略が込められていたわけですね。
布川:はい。メイド・イン・ジャパンの家具を海外に売っていくというのが、創業時の目的だったと聞いています。その後、日本の住宅スタイルがどんどん洋風化していきましたよね。応接間のある間取りが一般的になってきて、洋家具の需要が国内でも急速に伸びていったことで、当社の販路も海外から国内へとシフトしていきました。
宮島:1959年というと、日本が高度経済成長に差しかかっていくタイミングですよね。まずは国内市場を優先していくのが自然なように思えるのですが、いきなり海外からというのは驚きです。そのきっかけは何だったのでしょうか。
布川:創業者の話によると、当時から国内市場の成長も視野に入っていたのは間違いないそうです。ただ、そこが大胆なところなんですが、洋家具を手がけるのであれば、本場である欧米の市場でまず認められたいと考えていたようです。
本場で揉まれて、鍛えられて、ブラッシュアップされた商品を国内に展開していく。その方が、自分たちの製品もより洗練されるだろうという。
私自身が同じ時代に経営していたら、その戦略は取らなかったかもしれません。でも、当時の創業者には、そうした気概と挑戦心があったのだと思います。
宮島:実際に、その戦略はうまくいったんでしょうか。
布川:アメリカやオーストラリアでの販売は、コンスタントに続いていたようです。ただ、どうしても輸送コストなどがかかってきますし、次第に国内市場でも需要が高まっていったことで、販売の軸足が自然と国内に移っていきました。
特に1960年代から70年代にかけては、玄関を入ってすぐに応接間があるような住宅が多くて、ソファやキャビネットの需要が一気に高まりました。当社も、そうした需要に応じて商品ラインナップを拡充し、比較的順調に事業を拡大していくことができました。
革製品の開発とヒット商品
宮島:国内市場にシフトされていく中で、御社ならではのイノベーションも数々あったかと思います。なかでも革製品の開発が象徴的な出来事だったと伺いました。
布川:そうですね。当時、国内で家具用の本革というものは存在しておらず、医療用の革などを代用していた時代でした。そんな中で、当社が国産の革メーカーとタッグを組んで、家具専用の本革を開発したんです。これが大きな転機になりました。
その革で作った国産本革の応接ソファが大ヒットしまして。1970年前後の話ですね。
宮島:今では当たり前になっている素材ですが、当時は革新的だったわけですね。
布川:ただ、その後1973年のオイルショックで市場が一気に冷え込みました。まったく売れなくなってしまって、工場のスタッフが日がな一日敷地の草を抜いていた、なんて話もあります。
その頃に製造したのが、半革の応接セットです。体に触れる部分は本革、見えにくい裏側などには合成皮革を用いたもので、これも当社が最初に手がけました。不況の中でも求められる価格帯と品質を両立させたことで、再びヒット商品になったんです。
宮島:危機の中で生まれた製品が市場に受け入れられたわけですか。
布川:ええ。それがまた次の展開につながっていくんです。1977年には成型合板、木を曲げて成形する加工技術を使った製品の生産を始めました。これにより、無垢材と成型合板を組み合わせた新しいデザインの商品を展開できるようになり、他社との差別化が図れるようになっていきました。
宮島:北欧デザインへのアプローチや、リクライナーなどの機能的な家具の展開も、この時期だったと?
布川:そうですね。リクライナーなどの付加機能を持つ製品もどんどん展開していって、冨士ファニチアらしさを前面に出せるようになっていきました。革の品質や成型合板の技術の高さなど、細部にわたるこだわりが評価され始めたのもこの頃です。
宮島:ちなみに、家具用と医療用の革の違いというのは、どのような点にあったのでしょうか。
布川:いちばん大きいのは、耐摩耗性や表面の質感ですね。ラグジュアリーなアイテムであるソファにおいては、革のタッチ感や柔らかさも非常に重要です。そのバランスを取るために、革メーカーと一緒に相当な試行錯誤を重ねたと聞いています。
低迷期と再起の決断
宮島:順調な成長の一方で、御社にも試練の時期があったと伺いました
布川:1990年代から2000年代にかけてが、いわゆる低迷期ですね。私の認識では、7~8年くらいは会社としてかなり厳しい時期でした。
あの頃、国内市場では家具が行き渡ってきて、供給過多になっていたんです。それに加えて、バブルが崩壊し、安価な輸入家具がどんどん入ってくるようになって、価格競争が激化しました。当社もなんとか対応しようと、商品ラインナップを拡大し、多様なニーズに応えようとしたんですが、今思えば少し拙速な開発が続いていたかもしれません。
宮島:過剰なラインナップ拡充によって、逆に商品の魅力が薄れてしまった?
布川:はい。結果として、デザイン性の面で見劣りする商品が増えてしまって。当時はコストダウンに注力していたので、製品としての魅力や独自性が失われていたと思います。それが低迷の要因になってしまった。
そこで2006年、方針を大きく転換しました。それまでの商品開発のコンセプトは一度すべて捨てて、根本から考え直すことにしたんです。
宮島:それは思い切った決断ですね。従来の流れを一掃して、新しい方向に舵を切ったと。
布川:ええ。「Koti」や「Nagi」といった、当社のフラッグシップモデルはそのときに生まれました。
Koti
「暮らしに根ざす普遍的価値」をコンセプトに、北欧由来の名とデザイン思想を取り入れながら、日本の職人技と高い工作精度のもとで2006年に誕生。冨士ファニチアを代表するシリーズのひとつ。耐久性・使い勝手・素材感の三拍子が揃った定番モデルとして、多くのユーザーに支持されている。
Kotiという名称は、フィンランド神話に登場する家の精霊「kotitonttu(コティトンッツウ)」をアレンジしたもの。
Nagi
コンセプトは瀬戸内海の穏やかな「凪」。風が止み、波も揺らがない静けさをテーマに開発されたシリーズ。木部には薄く繊細な成形合板と削り出しの無垢材を組み合わせ、背面から脚部にかけて流れるような曲線を実現。どの角度から見ても美しいシルエットで、空間に溶け込むデザインが魅力。
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布川:商品開発では、デザイナーの意図を100パーセント反映することを絶対条件にしました。製造の都合で構造やデザインを変えるのは一切禁止。いかに美しいフォルムを量産できるか、それに全力を注ぐという方針に変えたんです。
当然、コストは上がります。でも、そこは一切妥協せず、価格競争ではなく、価値で勝負する。従来の商品の多くを廃番にして、新しいコンセプトの商品で再構築していく。その路線で今日まで続けてきました。
宮島:当時の家具業界はまさにデフレの只中で、アジアからの低価格なノックダウン家具も流入してきていましたよね。そんな状況で高付加価値路線に切り替えるのは、相当な勇気が必要だったのでは。
布川:社内の反対もかなりありました。でも私は、価格ではなく「こだわりのあるインテリア」を求めるお客様が一定数いると信じていたんです。
市場は必ず二極化していくだろうと。ならば我々は上を目指すしかない。国内で製造している当社が、価格競争で勝つのは無理ですから。むしろ、品質・デザイン・座り心地など、感度の高いお客様に向けた商品で勝負すべきだと、強く確信していました。
宮島:ある意味、社運を賭けた転換だったわけですね。
布川:はい。ただ、変革そのものに恐怖心はありませんでした。むしろ、やらなければ会社が持たないという危機感の方が強かった。だから迷わず踏み出せました。
製造改革とトヨタ生産方式の導入
宮島:商品開発の大幅な見直しと同時に、製造体制の改革にも取り組まれたと伺いました。
布川:それまで当社は大量生産型の工場運営をしていたんです。商品アイテムも少なかったですし、大量ロットで生産することで効率を高めるというのが正解だった時代です。
でも、商品のバリエーションが増え、使用する木材やファブリックも多様になってくると、旧来の生産体制では立ち行かなくなった。効率どころか、逆に非効率になっていたんです。
宮島:製造工程が多様化に追いつかなくなった、ということですね。
布川:まさにそれです。そこで私が注目したのが「トヨタ生産方式」です。いわゆる“かんばん方式”や“ジャストインタイム”の仕組みですね。2010年からこの考え方を取り入れて、現場の改善活動を本格的にスタートさせました。
宮島:家具業界では珍しいアプローチだったのでは。
布川:当時はそうでしたね。「木工でそんなの無理だ」と鼻で笑われることも多かったです。実際、社内からも強い反発があって。現場の職人さんたちは、体で覚えたやり方を変えるのを嫌がりますし、「家具を知らない若造が」と言われたこともありました。
でも、やらなきゃ会社が持たない。そう思って現場に顔を出して、徹底的に議論しながら進めました。最初は効率もむしろ悪くなってしまって、「だから言っただろう」と批判もされました。
宮島:それでも続けた、と。
布川:ええ。現場と向き合い続けて、結果が出始めたのが1年半後くらいですね。生産効率も、数字として明らかに改善されてきて、反発も徐々に収まりました。
今では当社の工場見学に来られる同業者やお客様から「こんな家具工場は見たことがない」と言っていただけるようになっています。効率だけでなく、品質や作業環境、社員満足度にも配慮した現場を目指して、グリーンに囲まれた休憩スペースをつくるなどの工夫も重ねてきました。
宮島:現場の改善と人の働きやすさ、その両方を追求してこられたんですね。
布川:そうですね。人が育ち、働く環境が整ってこそ、技術力や製品力も伸びていくと思っています。
満足感と幸福感に寄り添う家具をつくりたい
宮島:布川社長にとって「良い家具」とは、どのようなものでしょうか。
布川: これは、日々自問自答しているテーマです。もちろん、デザイン性や機能性があることは前提ですが、私たちが本当に目指しているのは、当社の家具を「所有していること」や「日常的に使っていること」そのものに、お客様が満足や喜び、幸福感を感じていただけるような商品づくりなんです。
デザインの美しさ、フォルムのかっこよさ、耐久性、素材の良さ。これらは、メイド・イン・ジャパンの家具ブランドであれば当然備えていなければならない要素です。備わっていないとすれば、それはもう論外だと考えています。
そのうえで、“お気に入りのこのソファに今日も座る”という日々の行為が、お客様にとってのささやかな幸せや満足感につながるような、そんな家具を作っていきたいと思っています。
宮島:なるほど。いわゆるプロダクトアウトではなく、お客様視点からの「マーケットイン」の考え方ですね。
布川:はい、まさにそうです。プロダクトアウト的な発想、つまり作り手の都合や思いだけではなく、それはあくまで「手段」。私たちが目指す「目的」は、お客様の暮らしの中でどんな価値を提供できるか、というところにあります。
たとえば、気づけば自然と手に取りたくなるような、ついこのソファに座りたくなってしまうような。あるいは、ご友人が来たときに「ちょっと見てほしい」と自慢したくなるような、そんな感情が生まれる家具。
感性に訴える部分、エモーショナルな満足を高められる家具を、お客様に提供していきたいと思っています。もちろん、そういった家具づくりは簡単ではありませんが、そこに向かって挑戦し続けたいですね。
海外展開と新たな成長戦略
宮島:国内の市場が縮小していく中で、やはり海外展開も視野に入れておられるのでしょうか。
布川: 日本の人口減少が加速する中で、将来的に国内市場が縮小していくことも見据えて、販路を国内だけでなく、海外にも広げていこうと進めてきました。現在は中国の上海・北京・香港、それから台湾、シンガポールに継続的に輸出をしています。
布川: それに加えて、人材の採用も難しくなってくると考え、大型の自動設備の導入を積極的に行なうと同時に、トヨタ生産方式に基づく改善活動も取り入れて、省人化を図っています。
宮島:どのような工程で自動機を活用されているのでしょうか。
布川:今、重点的に取り組んでいるのは、切削や面取りといった機械加工の部分です。一方で、塗装や縫製、張り、研磨などの工程は技術の高い職人にきっちり任せる。そこに付加価値を持たせるという考え方です。
宮島:ホームページの動画で、梱包を手作業でされている様子を拝見したのですが、そこもあえて自動化されていないのですか?
布川:うちは多品種・少量生産で1台ずつ製造しています。ロットを固めず、あえて分けて生産しているので、梱包形態が毎回違ってくる。むしろ小回りが利いた方がいいので、梱包は人間の手で行なっています。売れ筋の商品でも、ラインバランスを保つために製品Aを作ったら製品Bを挟んで、またAを作るというふうにしています。そうしないと特定の工程に負荷が集中してしまうんです。
歴史を振り返ると、そうした選択の積み重ねが今の体制につながっていると思います。
理念経営と人材育成の取り組み
宮島:経営者としての理念や、お考えについてお聞かせいただけますか。
布川:私が社長に就任したのは2021年で、そのときに幹部とブレストを重ねてコーポレートフィロソフィーを策定しました。ミッション・ビジョン・バリューを明確に定め、それを経営計画書の中に明示しています。
毎日、部門ごとの朝礼でそれを唱和し、週に一度の全社朝礼でも取り上げています。営業会議や製造会議などでは、「この判断はミッションと照らし合わせてどうか?」といった問いかけを行ない、社員の行動指針として浸透させるようにしています。単なるお飾りの呪文ではなく、自分たちの中に落とし込んでもらうことを目指しています。
宮島:御社のミッションはどういった内容なのでしょうか。
布川:少々物々しく聞こえるかもしれませんが、「創造的破壊から生まれる価値により、誰もが人生の主人公になる」としています。
経営環境やお客様のニーズは、常に変化しています。こちらの都合はお構いなしです。だからこそ、私たちも業務の進め方や商品開発、販売手法などを常に見直し、改革していく必要がある。その姿勢を象徴する言葉として「創造的破壊」を掲げています。
布川:これは、私自身が会社の低迷期に経営に携わり、何とか再生させたいという思いで改革を推し進めてきた体験に基づいています。一度気を抜いたら、あっという間に坂を転げ落ちてしまう。そうならないためにも、常に自らを壊し、変化していく意識を持ち続けなければならないと思っています。
宮島:そのような変革の中で、社内には戸惑いや反発もあったのではないですか。
布川:もちろん変革の過程で会社を去っていった人もいましたが、今、幹部を務めているメンバーたちは、あの時期に私の考えに共鳴し、一緒にやってきてくれた人たちです。同志のような関係ですね。絆は非常に強いです。
宮島:社長という立場は孤独だとよく言われますが、そういう仲間がいることは心強いですね。
布川:本当にそうです。ベースを理解し、日々実行してくれている人がいるというのは大きな支えです。
宮島:理念や仕組みを整備するだけでなく、組織づくりや人材育成も重要な経営の柱かと思います。そのあたりはいかがですか。
布川:私が社長として担うミッションは大きく2つあると考えています。
1つは、在任中に業績を上げて社員や株主といったステークホルダーに還元すること。
もう1つは、次の世代を育成して、より良い冨士ファニチアを引き継いでもらうための基盤をつくることです。
布川:私が進めてきたやり方をそのまま踏襲してくれとは思っていません。時代によって最適な方法は変わる。大事なのは、変化し続けるマインドを持った人材を育てていくことです。それが私の考える「DNAの移植」です。
布川:社内で毎年発行している経営計画書には、コーポレートフィロソフィーや中長期の事業構想、当年度の目標や重点項目などを盛り込んでいます。全社員に配布し、年度初めには私から内容と想いを直接伝えています。1冊1冊に私がサインと印鑑を押しています。
布川:毎朝の部門朝礼では、経営計画書の一節を輪読し、現場での判断の際に立ち返る指針としても活用されています。最近では、社員から「こういう場面でこの項目が役立った」という声も聞けるようになってきて、うれしく感じています。
挑戦する若手への期待と今後の展望
宮島:今後、若手社員に期待すること、求める姿勢などがあれば教えていただけますか。
布川:先ほどからお話している「創造的破壊」のマインドを持った社員を、これからも育てていきたいと思っています。そのためには、やはり若いうちからチャレンジ精神を持って行動してもらいたい。
私自身も挑戦しては失敗を重ねながら学んできたので、失敗を恐れずにアクションを起こすことが大事だと考えています。上司は部下の挑戦をしっかりフォローする。それができる会社でありたいですね。
宮島:若いうちは、失敗も許されるし、体力も気力もある。やり直しもきく。そういう時期にこそ挑戦してほしいですよね。
布川:若い人は我々よりも許される余地が広いですから、思いきりやってもらいたい。失敗も含めて経験していく中で、必ず糧になるはずです。PDCAを回しながら学びを得ることが成長につながります。
宮島:今後の展望についても、お聞かせいただけますか。
布川:一番大きなテーマとしては、日本の人口減少があります。これは今後、あらゆる事業環境に影響を及ぼしていくことは間違いない。その中で、日本国内の市場も確実に縮小していくという前提を踏まえながら、事業を運営していく必要があります。
とはいえ、家具業界はまだ寡占化が進んでいない業界で、中小規模のメーカーがたくさん存在している。そうした環境だからこそ、個々の企業がしっかりとお客様のニーズをとらえ、変化する販売チャネルに適切に対応することで、業績を伸ばす余地は十分にあると思っています。
国内外ともに、お客様のニーズや市場環境の変化に柔軟かつスピーディーに対応し続けること。それが、今後の当社の展望です。
布川:冨士ファニチアは、常に進化し続けることを目指している会社です。皆さまのご期待を裏切らず、期待を超えるような商品やサービスをお届けできるよう、努力を続けてまいります。どうぞご期待ください。