「先見・独創」の理念を掲げ
飛騨・高山の家具のブランドをさらに高みへ
2019年11月某日に行なわれた、飛騨家具を代表するメーカーのひとつシラカワと、ヘヤゴトのトップ対談。「目に見える何かを残したい」という強い思いから作り上げた木製の車椅子や、飛騨・高山の家具のブランドを守る組合の役割、ビジネスにおいて白川会長が最も重視しているものなど、お話を伺いました。
株式会社シラカワ PROFILE
1960年、岐阜県高山市で製材(※)業を創業。1965年から下請けでテレビの脚などの製造を開始、1971年に家具製造に業種転換する。創業以来「日本のモダン」を製品コンセプトに、飛騨の技術と匠の精神を込めたダイニングセットやソファ、リビングボードなどの家具を生み出している。本社がある高山のほか、東京から福岡に5つのショールームを展開。本社ショールーム「飛騨高山 匠館」ではシラカワの家具を配置し、飛騨の食材を使ったイタリアンレストランやカフェも運営している。
(※)製材……伐採した木を角材や板に加工すること。丸太や原木を切削加工して寸法を調整した木材製品。建築をはじめ家具・建具・土木・造船などに利用される。挽き材。
(目次)
- アメリカ材輸入のために渡米、取引先の製材工場が全米ナンバーワンに
- わずかテーブル1台分の展示で催事を成功させた理由
- 会社がひとつになって作り上げた木製車椅子「ホイールチェア」
- 先代から受け継ぐ「先見・独創」の企業理念
- 「飛騨・高山の家具」を名乗れるのは基準をクリアした8社のみ
- 国や言語の違いを越えて、ビジネスは人と人の信頼関係
アメリカ材輸入のために渡米、取引先の製材工場が全米ナンバーワンに
宮島:まず白川会長ご自身のご経歴についてお伺いします。
白川:昭和35年(1960年)生まれのねずみ年。来年還暦です。岐阜県の高山で生まれ育ちました。大学進学で上京し、卒業後は家業に加わる前の修行というかたちで、埼玉の筑波産商さんで約3年お世話になりました。
会社から声がかかったのは、ちょうど国産材が手に入りづらくなってきた時期でした。林野庁の方針で国有林が伐採できなくなってきて、アメリカ材の輸入をスタートさせた頃です。今から33年くらい前ですね。
宮島:1980年代半ば、ちょうどバブルの真っ只中のあたりですね。
白川:アメリカ材の仕入れをシラカワと飛騨産業さん、日進木工さんの3社共同で始めました。飛騨産業さんと日進さんが受発注業務を受け持ち、うちは日本とアメリカの連絡係として、私がアメリカへ行くことになったんです。最初はシカゴ、次にインディアナの製材業者の社長のところにホームステイしながら延べ1年半くらい。
アメリカの製材方法は効率主義で、無駄な部分を出さないよう木を板目状にカットするのが主流です。でもそれでは日本では使えないので、日本向けの材料に変えてもらわないといけなかった。
宮島:日本向けの材とは、具体的にどういうものですか。
白川:まずオーク材。ホワイトオーク、レッドオークがありますが、板目の材料は粘りがあまりないもんですから、干割れやクラック(=亀裂)が入ったりする。それを無くすためには柾目に挽かないといけない。柾目は割れが出にくく、狂いにくいんです。
とはいえ、板目が主流のアメリカで、柾目の挽き方でやれと言ってもなかなか難しい。挽いたものはグレード別に仕分けるんですけど、その中から日本向けの柾目の材料を選別するようにしたり、含水率も日本向けに変えてもらったり。私自身はそれほど詳しかったわけではありませんが、詳しい人たちが日進さんや飛騨産業さんにもたくさんいたので、彼らからもらった情報を向こうの製材会社に伝える仕事をしていました。
宮島:なるほど、だから連絡係。当時から飛騨の家具として材料にもこだわりがあったんですね。
白川:はい。当時40人くらいの従業員がいる製材会社だったんですけど、今では2シフト制で230人。全米ナンバーワンの柾目挽きの工場まで育ちましたね、その会社は。効率主義が浸透しているアメリカにおいても繊細な人はいて、オーク材に割れがいっぱい入るのが嫌だと感じていたようです。柾目挽きにすると割れないことを我々が教え、指導し、それをセールストークにしていった結果、ぐんぐん伸びていきました。
木材の基礎知識
【木目 もくめ】
板目 いため:丸太の中心からずらして製材した際にできる表面の模様のことを指し、年輪が平行ではなく山形やたけのこ形の木目。若くて柔らかいため、経年とともに反りや収縮などの狂いが発生しやすいが、中心部以外から製材できるため、柾目材より取れる量が多いぶん安価。節が多いことをデメリットととらえる向きもあるが、家具の木材として使用する場合は逆にそれが味になったりもする。
柾目 まさめ:丸太の中心付近を製材した際にできる表面の模様のことを指し、年輪が平行な木目。内部が緻密のため、反りや収縮などの狂いが少ないのが特長。中心部しか柾目として製材できないため、板目材と比べて生産量が少なくなり、板目材より希少=高価になる傾向にある。
追柾目 おいまさめ:板目と柾目の中間的な特長を持つ木目。板目材より変形収縮が少なく、柾目材より安価。
わずかテーブル1台分の展示で催事を成功させた理由
宮島:アメリカで経験を積み、日本に帰って来られてからは。
白川:帰国後はシラカワに入社して営業に就きました。当時の飛騨はもっぱら代理店制度で、代理店に販売のすべてを任せるような形をとっていました。飛騨産業さんは来年創業100周年で、日進木工さんや柏木工さんも70年を越えていますが、うちは製材業で会社を興し、1971年に家具製造に転換したので、飛騨家具のメーカーの中では後発です。だからこそ販売手法も従来のやり方を追っていては駄目だと、私の親父や叔父がダイレクト販売を始めました。
宮島:代理店制度ではなくて、直取引でやられたと。
白川:ええ。関東では代理店制度をとりながら、関西から徐々に直販を進めていきました。その中でも印象に残っているのは、今はもう無くなってしまったんですが、大阪の小売店さんとの出会いです。外商部の部長さんから「場所はとても狭いけど、ハウスメーカーさんで(販売を)やってみないか」とお声がけいただいて「ぜひやらせてください」と即答したはいいものの、詳しく聞いたらダイニングテーブル1台分のスペースしかないと(笑)。当時からうちはエンドユーザーの要望に合わせてサイズやカラーを選べるオーダー対応をしていたので、テーブル1台と6脚バラバラの椅子で催事に参加しました。
宮島:結果はいかがでしたか。
白川:今でも覚えているんですけど、2日間の催事で、その1セットだけで370万円ぐらいの見積もり注文をとりました。それをきっかけにハウス業界にも営業をどんどんかけて、現在のウエイトはかなり高いところまでいっています。
宮島:現在も引き続き、御社の得意とするオーダーメイド型で商品展開されているのでしょうか。
白川:はい。お客様の要望に合わせてメーカー側も変化していかないと商品は売れませんからね。たとえば、飛騨家具の歴史が始まった頃、作っていたのは脚物家具、テーブルと椅子でした。でも、いくら良いダイニングセットを作っても、基本的に一家に一台しか必要とされませんよね。営業がどんなに頑張っても「気に入ったので買わせてもらうけれど、ひとつしか買えないよ、ごめんね」と言われる世界ですから、お客様が求めている物を探り続け、作り続けなくてはいけないんです。
そういう思いもあって、30年ぐらい前からシステムオーダーボードを手がけています。お客様のニーズに合わせていけるように、幅と高さは5㎝刻み、奥行も2種類くらい、カラーも10種対応できるような商品です。そうすることで1件単価を上げていく。リビング商品ももちろんそうですけれど。
宮島:飛騨の家具といえば、組合や名のあるメーカーさんが複数ある中で、特徴的な商品をつくり、それを付加価値として販売されているというイメージを持っていたので正直意外でした。
白川:もちろんそういったプロダクトアウトで、メーカーが「こういう物はどうですか」とすすめる商品もありますよ。でも実際にお客様のお部屋に家具を入れる時には制約がたくさんあり、その中でお客様にご満足いただけるものを作っていくことが、メーカーとして最重要だと思っています。サイズやカラー、それから張地のオーダーに徹底的に対応していく、それがうちのいちばんの特長、強みですね。
宮島:かつて右肩上がりの「ものを作れば売れる時代」はメーカー主導型でした。ところが今やマーケット縮小時代。市場が何を望み、作り手は市場に対してどんな商品を提供していくかという命題に、お客様のニーズに応えることが商売の原点であり、これからの時代の商売のスタイルなんじゃないかと非常に共感を覚えています。御社ではそれをもう昔からやられていたと。
白川:そうですね。ハウス業界においても、そういったフレキシブルな対応ができるメーカーという点を評価いただいたというのはあると思います。
会社がひとつになって作り上げた木製車椅子「ホイールチェア」
宮島:経営者としての哲学やポリシー、大切になさっていることとは何でしょうか。
白川:社会貢献なり、いろんなことで、何か目に見えるものを残すこと。私だけではなく社員がシラカワに勤めて「自分が残したものはこれだ」と誇れるような、そういうことを皆でやりたいですね。
宮島:これまでに実際に形にされたものはございますか。
白川:この東京ショールームにも並んでいますけれど、「ホイールチェア」という車椅子を作ったことでしょうか。取引先の社長が病気で半身不随になってしまって、彼にプレゼントしたいと思ったのが開発のきっかけです。木製の車椅子で、ご家庭内での使用を想定しています。家族が使うテーブル・チェアと同じ目線の高さの車椅子で生活できるようにホイールを小さめにして、座面や背もたれの高さがうちのプロパーのチェアと同じになるように設計しています。
宮島:今まで使っていたシラカワの椅子を、ホイールチェアにリメイクするオーダーは可能ですか。
白川:はい。実際にそういった形でも販売しています。「加齢とともに足腰が弱って車椅子が必要になったときに、使い慣れたその椅子をこういう形にもできますよ」というストーリーで、いつまでも快適にうちの椅子に座っていただきたいと願いを込めて。
これを作るとき、朝礼で社員に話をしたら後押ししてくれたんですよ。車椅子作りに対して我々は素人ですけど、家族が車椅子の生活をしているという者も多かったので「どこをどう変えたらいいか、紙を置いておくから書いてくれ」と意見を募ったら「ここはこうした方がいいです」「介助者用のハンドルが低すぎます」だとか40枚ぐらい集まって。それらを全部まとめて、試作を繰り返して商品化しました。その時は会社全体が同じ方向を向いていることが伝わってきて、ものすごい達成感がありました。
ホイールチェア
シラカワの木製ダイニングチェアがベースの車椅子。モダンから和タイプまでさまざまなチェアで展開しており、すでに使用中のシラカワのチェアを車椅子仕様にすることも可能。木ならではの温もりがあり、家族と同じデザイン・掛け心地で心の絆が感じられるとともに、高いインテリア性も持つ。
チューブレスの20インチタイヤで小回りが効き、家庭用エレベーターの規格寸法(135cm)内で回転できる。座はアンカーサポート仕様で座面から滑り落ちにくい。オプションで介助用ハンドルも取り付けられる。
宮島:創業から現在までの間には、さまざまなアクシデントも経験してこられたと思います。
白川:これまでバブル崩壊やリーマンショックなど会社経営を左右する経験をたくさんしてきましたが、うちは先代からずっと「無理をしない経営」が信条です。要は「売切れ御免」の世界がいちばん良い。景気の波には乗らず「もっとも適正な利益が出る売上を目指す」スタンスで、バブル景気の頃も無理して伸ばすことはしない代わりに、落ちる時にも落ちていない。バブルが崩壊して売上が半分以下に……という声が聞かれる中で、うちは2割減くらいだったかな。今のうちの設備でいちばん利益効率の良い売上である16億円前後をずっと守っていく。もっと伸ばしたければ別事業、別会社を起ち上げてやる。そういう考えでずっとやってきています。
宮島:非常に堅実経営でいらっしゃいますね。
白川:叩き過ぎて石橋を壊すんじゃないかと言われることもありますけど、実際には石橋を叩いて飛び越えてしまうことがあります。それはそれで、何のために叩いてたんだって言われてしまいますが(笑)。
宮島:自重するのが大変なくらいだと。石橋を飛び越えて別の領域でチャレンジしたエピソードがあればお聞かせください。
白川:うちの本社がある高山のショールーム「匠館」で観光事業を始めたことです。4年前に建て替えたんですが、3階が85席のイタリアンレストランで、2階が家具のショールーム。1階は54席のカフェと、飛騨高山の特産品や土産物を販売するショップです。これはもう、そういう場所が手に入った以上、神様がやれと言っているんだと、石橋を叩くも何も無しにやってしまいました。
先代から受け継ぐ「先見・独創」の企業理念
宮島:私が初めて会長とお会いしたのは今から5年ほど前、当時は社長でいらっしゃいました。代替わりされた経緯をお聞かせいただけますか。
白川:うちの先代は兄弟経営で、叔父にも婿――私から見ると1歳上の従兄です――がいて、先代の状況とよく似ているんです。私は1994年に製販分離した販売会社の方の社長を、従兄は製造会社の副社長をやっていました。2003年にまた会社を統合することになり、私が社長で販売を、従兄が副社長で製造を仕切る形でしばらくやっていました。それからさらに3年前に私が会長、従兄弟が社長に交代したと。
宮島:3年前の交代にはどういったきっかけや理由があったのでしょうか。
白川:ちょうど私に飛騨木工連合会の理事長が回ってきたタイミングだったんです。理事会だとかフェスティバルの開催だとか社外の仕事がどんどん増えまして。日本家具産業振興会の理事、輸出促進委員長などを務めているのもあって、外での活動が多忙になってきたというのもありますね。
家具業界の用語解説
飛騨木工連合会:1300年の家具の歴史が息づく飛騨高山で、1950年に設立された協同組合。伝統文化の精神性を大切にした上質な家具作りを通して飛騨の家具のブランド化に取り組み、その一環として「飛騨の家具フェスティバル」を毎年開催している。
日本家具産業振興会:2家具団体組織が合併し、2010年に発足した家具の全国団体。家具業界の発展を通じて社会に貢献する組織をめざす。事業のひとつに「IFFT」を主催する見本市事業がある。
IFFT インテリア ライフスタイル リビング:日本有数の家具産地の家具をはじめ、テーブルウェアやデザイン雑貨、生活用品など、空間全体を構成する商材が集まる国内最大級の見本市。年に一度、東京ビッグサイトで開催されている。
宮島:シラカワの企業理念についてお聞かせください。
白川:「先見・独創」です。先代が作った理念で「世に無い物を、先を見ながら、いろんな情報を仕入れながら、新しい物を作っていく」。確かにそうだなと思い、私も掲げています。先ほどご紹介したホイールチェアもまさにそうですね。
宮島:会長がとくに気に入っているシラカワの家具はどちらになりますか。
白川:1995年の発表から売れ続けている「ラプト」シリーズですね。ゼロファーストデザインの佐戸川清さんのデザインで、これは本当にロングセラーで一押しの商品です。
それから新作の「凜」。今年7月に亡くなられた岩倉榮利さんの遺作です。最期に岩倉さんが手がけた作品ということで、これからもずっと大事に販売していきたいと思っています。ロングセラーになるということは、それ自体が付加価値になるんですよ。だからこそ、ちょっと売れないから廃盤にするのではなく、粘って粘っていつまででも売り続けるぞ、というのがうちの方向性でもあります。
宮島:会長がおっしゃるように、ベストセラーを作るよりもロングセラーを作る方が大変だけれども、実は息が長いというか。
白川:ええ、本当にそう思います。たとえば、こちらの「レジェ」の椅子は1985年に発表した商品です。先日、お客様から革の張替えのご依頼がありました。6脚で約60万円、買替えた方が金額は抑えられるでしょう。それでもお客様は張替えてほしいとおっしゃられました。
宮島:長く大切にお使いになってきたんでしょうね。我々が目指す理想的な家具とのお付き合いの形です。
白川:心を込めて張替えをして、また長く使ってもらえる。そういう商品がうちにはたくさんあります。
「飛騨・高山の家具」を名乗れるのは条件をクリアした8社のみ
宮島:日本には家具産地として知られる地域が複数あります。中でも飛騨高山の名前は広く知られ、その家具は根強い人気を誇っていますが、ここまでの発展を遂げた要因としては、やはり林業が盛んだったからでしょうか。
白川:メーカーとしては来年100周年を迎える飛騨産業さんが最初で、材料自体はもともとナラやブナがたくさん生えていた。でも、ナラやブナは「木偶の坊(でくのぼう)」の言葉のもとになっているような木なんです。硬くて加工性も悪いし、薪や炭にしかならない。ところが西洋ではそれを使って家具を作り、「曲木」という、木を曲げる技術で椅子にしたりしているらしい。自分たちもやろうと町の旦那衆が立ち上がってできたのが、中央木工。飛騨産業さんの前身の会社です。
飛騨の家具はこうして始まり、それから柏木工さんや日進木工さん。うちは製材業からで、家具製造は後発ですけれど。
白川:余談ですが、家具の産地でテーブルや椅子の脚物家具から始まっているのは飛騨高山だけです。北海道の旭川は、今ではカンディハウスさんを中心にクラフトっぽい物も多くありますが、もとは箱物家具の産地です。いわゆる団塊世代の話ですけど、人口が多いイコール結婚する人が多い。そうすると婚礼セットがよく売れる。広島の府中もそうですし、日本各地の家具の産地は、箱物家具や棚物家具の産地なんです。それから静岡は、婚礼セットの家具のひとつである鏡台の産地です。
宮島:確かに静岡の組合の展示会に行くと、鏡台のメーカーさんが多いですね。カリモクさんやマルニさんのようにメーカー単独では脚物家具を作っているところもありますが、産地としては飛騨高山だけだったということですか。
白川:はい。バブル崩壊やリーマンショックの時「住宅をひっくり返して落ちてくる家具以外は消えていく」「家具は部屋に作り付けになり、クローゼットがあるからタンスは売れなくなる」と言われていました。そんな中で椅子やテーブル、ソファで生き残ってきた。サイズや樹種、張地のオーダーなど努力と工夫を重ねて頑張ってきたことが、飛騨高山が発展してきた理由だと思います。
宮島:なるほど。会長は飛騨木工連合会の理事長を務められていますが、飛騨家具のブランディングに団体としてはどのような働きかけをしていらっしゃいますか。
白川:飛騨木工連合会で平成20年(2008年)に地域団体商標を登録しました。飛騨木工連合会はそれを管理維持する立場にあり、「飛騨の家具」「飛騨・高山の家具」を名乗る基準を設けています。その基準をクリアしなければロゴや類語も含めて表示・使用ができず、飛騨の家具ブランドに認定されているのは現在8社のみです。
宮島:これも飛騨家具のブランドを守り、高めることにつながっているんですね。
白川:それから、海外バイヤーの招聘です。JETRO(日本貿易振興機構)と組んで、海外からバイヤーを呼ぶ。生産現場や文化に触れて、すべて見ていただいた上で取引するかどうか判断してもらう。昔は海外の展示会に出展していたので、そういったことも復活させたいなと思いますね。
国や言語の違いを越えて、ビジネスは人と人の信頼関係
宮島:今後の事業展開における構想や実現したいことは何でしょうか。最近では、ホテルオークラや新・国立競技場などコントラクト案件にも力を入れられているとか。
白川:メーカーとして表に出ていくことはせず、黒子に徹するつもりです。コントラクト案件については、お取引先様やお客様からお話をいただき、ご要望にお応えした製品を作っていくスタンスです。地道に繰り返していけばそういう機会も増えてくると考えています。
あとは輸出ですね。世界をマーケットにすれば、日本が人口減で市場がシュリンクしても影響はない、というわけで輸出に力を入れなくてはいけないだろうなと。
宮島:なるほど。輸出先としてはどの辺りのエリアや国をお考えですか。
白川:国は選びません。私の経験上、国も言葉も関係ない、人です。ビジネスは人と人の繋がりであり、言語が異なっても感性は通じ合うことを学びました。
2008年にロシアのレストランに納品したときの話です。展示会で見たうちの商品を気に入ってくれたんですけど、私が渡したメールアドレスが誤っていて連絡が取れなくなってしまったんです。そうしたら先方がファックスを送ってきてくれて。
宮島:そこまでしてでも御社の家具が欲しかったんですね。本気度の高さが伝わってきます。
白川:その後メールで70通くらいやり取りして、先方の真剣さや、とても良い人たちだということが伝わってきました。話がまとまってコンテナ2個分、椅子250脚と特注テーブルを納めることになりましたが、ちょうどその頃の世界経済はルーブル通貨危機が起こった後、かつリーマンショックの発生直前くらいの時期で、ロシアの景気も悪かったんですね。日本の資本がロシアから引き揚げて、向こうの情報も入ってこないような状況でした。そんな状況下で、先方からの入金が1週間以上遅れてしまった。入金がなくても納期は迫ってくる。それでもう、私の責任で商品を出してしまえと。
宮島:ええ!? 決済前に? 海外取引で未決のまま出荷しちゃったんですか。
白川:はい。最悪、名古屋港で荷を止められれば何とかなるという考えでした。そうしたら先方の社長からクレジットカードのコピーが届いて「入金が遅れるみたいなので、ここから引き落としてください」ときたので、社長を信じてもう出荷しちゃいましたと伝えたら「何やってるんですか!」と返ってきて。さらに後日モスクワで社長とお会いした時には「白川さん、ああいう時は絶対に出荷しちゃ駄目です」と諭されました。
宮島:海外取引ではご法度ですからね。決済が先ですから。
白川:信頼関係がしっかりできていたからできたことですね。今、お取引のある上海やソウルのお店も、やはり人と会い、話をして関係を築いてきたので、国や地域は関係なく、人と商売するということしか考えていません。
宮島:最後に、家具インテリア業界を目指す若い世代にメッセージをお願いします。
白川:インテリアは今後も無くなるものではありません。時代とともに変化しながら、まだまだ伸びる要素がある業界だと思います。
市場がシュリンクし、バブルのピークの頃に1万4700社あった木工メーカーが、2年前のデータでは3700社を切っています。パーツでの輸入を含めると家具・インテリア市場は9割方が中国やベトナムの製品、純国産は1割程度という現状です。しかし、これがずっと続くわけではないと私は考えています。中国製品の品質は向上していますが、それ以上に価格が急騰しており、中国からの輸入はこれから減っていくと見ています。現状の約1割の純国産が2割になれば、国内生産は倍増します。暮らしを良くするにはやはり家具・インテリア、中でも毎日触れている椅子やテーブルだと思います。それらの新しい販売方法・チャネルの開拓なども含めて、これからの方たちには頑張っていただきたいですね。