古代ペルシャ帝国における貢物がペルシャ絨毯の始まり?
紀元前5世紀には、すでに高度な技術と意匠でつくられた絨毯が存在していたため、手織の絨毯が織り始められたのは、3,000 年前とも 5,000 年前とも言われております。
シーラーズ/ペルセポリス(タフテ・ジャムシード)。絨毯を献上するレリーフを左側に見ることができます。
最古の手織り絨毯
ロシアの考古学者セイゲル・ルデンコは、1949年、南シベリアのアルタイ山中で、遊牧民マッサゲタイの王墓と思われるパズィルィク古墳を発掘。偶然にも氷に閉ざされていたため劣化を免れた約2m四方の絨毯が発見され、紀元前5~4世紀頃のものとわかりました。その絨毯技術は今日のものと変わらない高度なもので、閉鎖型・左右均等結び(トルコ結び)が用いられていました。また、ルデンコはその数年後、パズィルィク警告の西約180kmのパシャダル古墳でさらに密度の高い織りをもつ絨毯の断片を発見。こちらは開放型・左右非均等結び(ペルシャ結び)で、パズィルィクの絨毯より、さらに130~170年遡るものでした。
7~9世紀頃のものとされる絨毯破片の数々が出土
その後の絨毯の足跡は、東トルキスタンに残されています。イギリスの考古学者オーレル・スタインが、楼蘭(ローラン)、吐魯番(トゥルファン)で、3~6世紀頃の絨毯断片を発見しています。また、庫車(クチャ)で、5~6世紀頃の絨毯の破片が、ドイツの東洋学者ル・コックによって発掘されています。そしてエジプトのカイロに近いフスタートからは7~9世紀頃のものとされる絨毯破片の数々が出土しています。これからはいずれも乾燥地帯という特殊性の中で腐食を免れて残されたものといえるでしょう。
手織り絨毯の足跡
これら古い出土絨毯のほかにも絨毯の足跡はみられます。
それは文学や絵画に残された資料によるものです。アラブの史家タバリー(9~10世紀)が減給している7世紀のクテシフォン宮殿の織物「ホスロー王の春」、10世紀のペルシャの地理書、またそれ以降、中央アジア・西アジアを訪れたアラブや西洋の旅行家の記録などに散見されるさまざまな記述です。絵画のジャンルでいえば、古代遺跡のレリーフ、敦煌の壁画、宋や元の絵画、ペルシャやトルコのミニアチュール(写本の挿画一細密画)などが挙げられます。絵画資料に関しては、ルネサンス期に宗教画、肖像画など描写が正確な切実となることで、傍証資料としての価値がおおいに高まりました。
ペルシア絨毯の黄金期
同じ頃、イランにおいても絨毯づくりは盛んに行われていたと思われますが、著しく発達するのは、アケメネス、サーサーンに続くペルシャ人による大帝国が復興された16世紀のサファヴィー朝からです。シャー・タフマ ースプやシャー・アッバース一世の時代はペルシャ絨毯の古典期とされており、アナトリアの絨毯とはまた異なった緻密な曲線を扱った文様のペルシャ絨毯の名品が生み出されています。とくにアッバース帝の治世には、イスファハーンに都が遷されて、数多くの絨毯工房が新設され、金糸を使った絹の絨毯(ポロネーズ絨毯)など華麗な絨毯が制作されるようになり、インドのムガル朝やトルコのオスマン朝などに大きな影響を与えました。
ペルシャ絨毯の復興
18世紀、サファヴィー朝はアフガンの侵略に遭い滅びるとともに、絨毯の生産もごく一部を除く途絶えてしまいました。19世紀後半になってタブリーズを中心に絨毯づくりが復興されるまで、約1世紀以上のブランクがありました。この絨毯復興はタブリーズの商品を中心として欧州市場に向けてなされたもので、第一次世界大戦で市場がヨーロッパからアメリカ合衆国に移行したりしましたが、ガージャール朝から20世紀のパフラヴィー朝にも絨毯振興の制作は引き継がれ、世界のペルシャ絨毯の名を不動のものとしました。1979年、イランはイスラム革命により王制に終止符を打ちますが、絨毯産業は国の重要な輸出品目となっています。